豪州の政治・外交

 

豪州は1901年に連邦を結成し、英国女王を元首とする立憲君主国である。女王の名代として連邦と各州に総督がいる。連邦憲法には、立憲君主制、二院制(上院、下院)、三権分立がある。憲法上は英国女王の代理である連邦総督が会議の開会、休会、解散権などを持っているが、実際の政治は議会制民主制の形態をとっている。内閣は閣内と閣外(担当する問題が取り上げられるときにのみ参加)と分かれている。現在は自由党のハワード首相が三期連続で政権を続けている。99年にハワードドクトリンとして、豪州独自の価値観、軍事費増強、アジアでの副官(アメリカに次ぐ)としての役割がかかげられた。

 

 

外交政策

豪州の外交政策はミドルパワー、つまり中進国的な役割を基盤としている。97年の外交政策白書の中で、米、中、日、インドネシアの関係を重要視している。安全保障の面では、地域安全、自主防衛、対米同盟を重視している。そして日米安保関係強化、米豪安保関係強化、さらに日豪友好関係の強化による豪の安全保障環境を整備している。これは米豪関係の再構築を意識しており、前政権の労働党がアジアを重視しすぎたことによる米国へのバランス回復を意識しているためと言えよう。経済面では依然東アジアに接近している。

 

豪米関係

米との関係は、軍事面との関係が強い。アメリカを中心とする地域安全保障体制を強化している。1951年にサンフランシスコでANZUS条約(集団自衛権条項)が米、豪、NZ間で調印され、集団防衛としての条約が結ばれた。これは加盟国が攻撃を受けた際には自国が攻撃を受けたとみなし、互いに軍事協力するという条約である。この条約の元、軍事訓練、軍事派遣、情報交換を行っている。9月のテロの際にはハワード首相はアンザス条約の行使を発令し、米の反テロ報復戦に参加することを確約している。そして豪州特別部隊(SAS)や豪海軍輸送船も派遣したが、大規模な軍配備には参加していない。貿易面において米国は豪にとって輸出輸入共に一番多い国である。

 

東ティモール

東ティモールの直接選挙後に国連の元、豪州は平和維持軍を派遣し、中進国としての役割を担った。全地上兵力の約半数にあたる4500名を派遣し治安維持活動などで主導的役割を果たした。「脱欧入亜」を推進してきた豪州は地域安保においても豪州軍の東ティモール派遣を機にその役割をアピールしている。1996年にはオーストラリア・インドネシア閣僚会議をキャンベラで開催し、インドネシア経済復興促進の共同行動計画を採択している。

 

しかし東ティモールに対する豪州政府の姿勢は、インドネシア本土との一体化の支持を表明している。インドネシアをオーストラリア企業のための安全地帯としておくために、ハワード首相もダウナー外相も東ティモールはインドネシア軍と警察による独裁的支配を継続することがよいと考えている。そのため東ティモールは自決権を持つが、それは人民の権利や自決の手段や方法でなく、いかにインドネシア政府に統治されるかであると考えている。つまり東ティモールはインドネシアの一部であり、東ティモールの諸事項はインドネシア政府の責任であるとみなしている。

 

日豪関係

日豪関係は貿易面で良好であり、人の行き来も活発である。しかし今後関係をより深めていくためには、製造、検査、品質保証、流通における規格統一、そして専門資格、金融市場、商品のソフト・制度面の企画・基準の統一が求められると共に、さらなる規制緩和も必要となってくる。輸送費用の高さ、情報不足、ビジネスチャネリングも整備する必要もある。これらを正式に話し合うために2001年にシドニーで「日豪21世紀会議」が開催された。そこでは「日豪貿易・投資促進協定(TIFA: Australia-Japan Trade and Investment Facilitation Agreement)を提言し、関税問題、規制緩和、規格統一化、競争政策、知的財産権保護に関する政策を今後二カ国間で話し合っていく。また地域問題(地域における米国の役割)、サブリージョナルな問題(東ティモール、朝鮮半島)、国境を越えた問題(国際犯罪、テロ、食料安全保障)などの諸問題に対応していくために、今後は政府間の対話を拡大し、相互理解を促進するための政府関係者や学者らによる対話を行っていくと共に、多国間プロセスの活性化も行っていく。

 

豪・NZ関係

豪州はNZともCER経済緊密化条約(自由貿易)を83年に締結しており、NZと貿易、サービスの自由化、法制や税制の共有化をしている。また豪州はシンガポールとの自由貿易協定(FTA)締結に向かっている。そしてASEANCER(アセアン諸国、豪、NZ間)における自由貿易地域創設を提唱し、タスクフォース設置を合意している。

 

その他のアジア諸国

中国との関係は中国がWTO加盟したことを受けて、経済的接近を試みている。今後、関税の引き下げや非関税障壁の撤廃が期待されるので、豪州の輸出企業は数量の規制や価格競争を失うケースが大幅に減る。また直接販売が可能になるので、制約の多い投資関連の障壁も取り除かれ、豪州の投資家の進出も期待される。銀行、保険、会計、通信、観光業においても同じことが言える。しかし中国側の行政の複雑さ、不透明さ、非効率さや所得格差など克服する面が多々あるので、豪州政府はこれらに対する対応策が必要である。カンボジアに対しては和平に向けたシャトル外交を行った。国連PKOに平和維持軍を派遣し、1992年の国連カンボジア暫定機構(UNTAC)へ積極的に関与し、主に軍事および通信部門においてオーストラリア軍が活躍した。このことにより、アジア地域における確固たる地位を獲得した。アジアに対する外交的ジレンマとして、豪州はEAEC(東アジア経済協議体)ASEAM(アジア欧州会議)から除外されたので、アジアとの経済的接近が遅れがちである。

 

太平洋諸島

フィージーに対しては立憲制と民主主義の回復を可能にする役割を果たした。直接介入は避けたものの、限定的な制裁措置をとった。ソロモン諸島の部族間紛争には平和交渉、停戦合意にこぎつけ、NZと共に国際平和監視団を結成し派遣した。

 

 

国内政策

国内においては労使、先住民、難民、財政経済改革の面で活発に動いている。

 

財政金融政策

財政政策として20007月にはGST(物・サービス税)を導入し、個人所得税の減税、個別物品課税の廃止を行った。しかしキャスティングボートを握る無所属議員の取り込みに失敗したため野党民主党に妥協するはめとなり、基礎食品は税率がゼロとなり、高所得層への減税縮小などの修正を行った。金融政策としてオーストラリア連邦準備銀行が物価上昇を2%〜3%に抑えるようにした。

 

労使問題

労働党政権の時代はオーストラリア労働組合評議会(ACTU)と協定を結び、アコードを採用していた。アコードとは組合側にある程度の賃金抑制の協力をしてもらう見返りに、政府が減税、福祉、職業訓練制度を充実することを約束したものである。これで最低賃金などのセーフティネットが保持されていた。しかし使用者による企業の非組合化を促進するものとして労働組合から反発され、また不況と赤字のため産業構造の合理化が必要になった。そこで1996年にハワード政権は豪州職場協定(アワード)を導入した。これは組合を通さずに、職場単位で雇用者と被雇用者間で直接交渉できる個別雇用契約制度である。これにより、企業別に雇用者と被雇用者が交渉できるようになった。アワードの導入により労使紛争や労働損失日数が減少しているので、成果は上がっているといえよう。今後は、連邦と州の二本立てになっている労使制度を一本化していくため、200010月に全国共通の労働基準設定に関する討議書を公表した。

 

難民問題

難民問題は以前は移民政策であったが、1993年に独立した政策となり、移民・エスニック問題省が担当している。難民問題は人道的プログラムの一環として、一定数の難民を定期的に受け入れている。しかしイスラム諸国からのボートピープルはテロ活動家の侵入口となる懸念があるので、アフガンからの難民の受け入れは断固拒否している。これは国民の支持を受けているので、大きな問題には至っていない。

 

先住民問題

先住民問題は教育・福祉の充実、先住民土地返還問題など数多くある。1992年に連邦裁判所でマボ判決が出され、入植時に白人が先住民の土地を「無主地」として収奪したことを不当とした。それを受けて前キーティング首相はアボリジニへの土地変換のため法を整備し、先住権原法を通過させた。そして「土地権原(Native Title)」の概念が導入され、先住民は自分達の伝統的な土地に他人が入ることを制限できるようになった。しかし連邦政府はこの新たな法案から生じる先住民との混乱を避けるため、「土地権原法(Native Title Act)」を導入し、先住民に土地の所有権を与えても、その土地が既に移民者によって侵害されている場合は返還ではなく、賠償することに変更した。96年に最高裁が「ウィク判決」を下したことにより、リースしている農牧の土地も先住民に返還する可能性が出てきたので、ハワード政権はリースの土地に障害が出ないように、「ウィク法案」を提示した。98年の「先住民権法改正法」では各州が先住民の「交渉権」に関して独自のレジームを構築し、混乱を防ぐために連邦先住権法で規定された内容を最低条件とした。その目的は「任意交渉合意」に法的束縛をもたせて、移民者の土地の権利をある程度守るもことであった。一方政府による先住民との和解文書には、補償問題を避けるために、過去の人種差別政策に対する謝罪は含んでいない。

 

共和制移行問題

共和制移行の問題が生じたのは、憲法危機からである。1970年中頃、ウイットラム首相は予算決議などの重要課題を延期したので、カー総督に解任された。これをきっかけに、オーストラリアは自国の憲法に不信を抱き始めた。それと同時に、イギリスがECに加盟したこともあり、イギリスへの親近感が薄れていった。このように憲法危機やイギリス離れがあったため、前キーティング政権は共和制移行を提唱したが、主だった動きはなかった。現在のハワード政権はあまり乗り気ではなったが、国民の過半数が共和制移行に賛成していることもあり、1998年に共和制議論のために憲法会議を開いた。そして199911月に共和制移行の是非を問う住民投票を行ったが、議会選出型大統領制(大統領の間接選挙)に対して国民の支持が得られず、否決された。